『ブラックジャックによろしく』によろしく
第95話(精神科編・16「雪の日の出来事」

2004/08/01

皆さんお元気ですか? えれです。
おかげさまで私は元気です(^_^)。

さて、先日全く異なる主張の二精神科医の先生のエッセイを読みました。

一方のかたの主張は大体こうでした。
(今資料が手許になく、うまくニュアンスが伝えられなかったらごめんなさい。)
未曾有のストレス社会を受け、メンタルクリニックの受診者が増え続ける昨今、
人間はもっと自分の中に眠る自然治癒能力(ストレス耐性)を信じ、育てるべきだ。

また、もう一方のかたの主張は、どんな人も(特に不調を感じることがなくとも)
一度は精神科を受診し精神科とはどんなものか体感してみるのがいいのではないか。
金銭的事情が許せばカウンセリングを受けてみるのもよい。
つまりはそうした体験がわれわれと精神科との垣根を低くするのではないか。

私は直後はっきり言ってかなり混乱しました。
どちらの主張も理に叶っているように感じたからです。

ある種の症状には劇的に薬が効くそうなので一番目の例が当てはまらない
場合もあるのではないかと思いますが、私は以前観た『私は「うつ依存症」の女』
(それにしてもこのタイトル何とかならんのか)という映画を思い出すのです。
重いうつを病んだヒロインはその後米国で広く普及することとなる新薬によって
精神の安定を得るのですが、そのこと自体を皮肉な目で眺めており、
「一体薬を飲む前の私が本当の自分なのか、薬を飲んだ後の(結果的に矯正された)
人格が本物なのか」と独白します。

これは眼鏡をして見る世界がその人にとって本物の視界なのか、
メークをした顔が本当の顔なのかというのに少し似てますね。

でも眼鏡をしている人にかけるなという人はおらず、メークもやめろという人は
あんまりいない…

という訳で、まだまだ混乱していて申し訳ありませんが、今回もまたおつきあいください。
しかし、この男の顔がしっかり描かれるとは思わなかった。


・「私を待たないで下さい」

ピーターはそこにいたんだね。
私にもやっと分かったよ。

買う奴が悪いんだよ…

小百合ちゃんの家は精神的締め付けが強かったのか。それとも過剰に放任主義だったのか。
どちらの過程も共通するのは、誉められる(認められる)体験に乏しいということ。
それは生活のためでもあったのだろうが、女の子はちょっと服を脱げば、そして男の希望を
叶えればこの認められ体験を得ることができる。
だから続けてしまう。

多分ね…
違ってたらごめんね…

もういちど言います。
買う奴が悪いんです。

みんながみんなそうではないとしても、この世界のどこかに小百合ちゃんのような女の子が
いたとしたらそれはもの凄くつらいことじゃないか?

小百合ちゃんは自分を許していません。
そしてこの先の幸福も手に入れてはいけないと思っています。

そして私が女性だから言うのかも知れませんが、望まない妊娠や子供を(どんな理由にせよ)
失う体験がどれだけ女性の心身を蝕むかちょっとだけでも分かって分かってもらえたら
うれしいです。


・その男

先ほども書きましたが、私はこの男の顔が描かれるとは思っていませんでした。
(例え現実の似た犯罪の被告を想起させるものでなくとも)
こう、斜線かなんかで処理されるのかなと思っていて。

というのは昔、児童文学ホラー(そんなジャンルあるんかいな)の『かかし』という
本を読んでいて、近づいてくるかかしの、「三体目のそれは、顔にさえなっていなかった」
という描写を読んでゾーッとしたことがあったから。

しかし、この男の立場が今のところ(作中でも)決定していない以上「顔がない」というのも
できかねる話でしょうし、ここは相当悩みどころだったのではないかと勝手に想像しています。


精神化編が始まってから、大変丹念な描写が重ねられてきたと思います。
中には冗長と感じられるかたもあったかもしれませんが、すべてはこの雪の日の出来事に
繋げる為のものだったんだなぁと思います。

作者に真剣勝負を挑まれているような気さえします。(もちろんいつもでしょうが)
だったら私も真剣になります。

うーん、、次号は掲載があるのかなと思いながら…
えれでした。

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