『ブラックジャックによろしく』によろしく
第126話(精神科編・47 最終話「生きていたい」)

2005/11/12

皆さん、こんにちは、えれです。
お元気でしたか?(^^)

精神科編・最終話の感想をお届けしたいと思います。

結果的に、色々と考えていたら、こんなに遅くなってしまいました。

もしかしたら私は、この感想を終えたくなかったのかもしれません。
書くごとに体から消えて(それはあたかも膿をしぼられるように)いく何かに、気づきたく
なかったのかもしれません。

書き終わった後に自分がどうなるのか、恐ろしかったのかもしれません。

もし未消化の部分が出ましたら、よろしければ、その部分の再考は来春出版されるであろう
第13巻での機会を待ち、今できうることだけ考えていきたいと思います。


「また振り出しに戻っただけです… しかもずっと後方からのスタートです…」

果たして、この作品が目指してきた問題提起は成功したのでしょうか。
斉藤くんは、「ここでないどこか」へ、小沢さんを連れて行くことができたのでしょうか。

伊勢谷先生の頬を伝う、重い重い涙。

しかし私はここで、何かお伽噺を見ているような不思議な感覚に襲われました。
ふつうお伽噺の世界では、迷えるもの(若者)に指針を与えたり象徴を示したりするのは
いつも賢人(老人)の役目です。

しかしここではそれが逆転しています。

「だけど… スタートです… 」

と力強く言うのは、若者である斉藤せんせいなのです。
ここに若い力の台頭を感じずにはいられません。

そして、物語は自力で目覚める(ここがかなり重要に思えるのですが)小沢さんの姿に
また昔からの私たちが受け継いできた物語の原型を見ることができます。
それはすなわち“死と再生”の物語です。

どんなものにも、それはかいま見られますよね。私たちが新しい体験をして何かを習得するとき、
大抵は古い考えや仕様がある意味で死に、新しい考えや方法が自分の中で確立されるのだと思います。
それはたとえ小さなことでも絶えず身の内で起こっています。

小沢さんはまさに「身を粉々に」してそれを体験し、自身の「再生」のあかしとしての
新しい考えをつかみ取ってきます。

それはつまり、『YES』という言葉です。


(実は二ヶ月ほど前に『愛をつづる詩』(原題、まさに『YES』)という作品を見てきました。 
『オルランド』などで知られる女性監督サリー・ポッターの作品です。 
ちょっと映画本編のネタばれになってしまいますが、うー、ごめんなさい。劇中YESという言葉は
物語最後に登場します。私はこの映画が作法的に成功しているとは思えませんし、この映画を積極的に
語ることもこの先ないとは思いますが、今回最終回を読んでやっとこの映画の意図が分かりました。
「だからこの世には…イエスしかない」。監督の言わんとするところをやっと汲みとれたのと同時に
この漫画の主張する想いが押し寄せて、わたしは一瞬胸がいっぱいになりました。)


この文字は、とてもとても小さい。けれど、けして消えない。


そして同時にこれを小沢さんが自分でやってしまったこと、(つまり答えは自分の中にあった)
自分の価値観が叩き壊されるきっかけを(たとえ追いつめられていたからとは言え)外側からの
働きかけでなく自分自身で行ったことに(決して方法は良くなかったが−…。本当に良くないです!
私は誰にもどこかから飛び降りてなど欲しくはありません!!)
そのことに驚きを禁じえないのです。


最終ページの風景に融け込む男女二人は、(これは、どう描いているんだろう、佐藤先生独特の
描法だからですが)もしかしたら小沢さんと早川さんではないかもしれません。
149Pで空を飛んでいるのは妖精ではないかもしれません。

でも今ここでそれを疑う人がいるでしょうか。
希望は…消せません。けして。


さて、最後にもういちど、今回まとめきれなかったことは単行本の感想へ譲るとして、今回は
一旦この項を終えたいと思います。

そして本当に最後の最後になりましたが、こんなテキストだけのページにいつも訪れて下さった
皆さまへの感謝を持ちまして、結ばさせて頂きます。

皆さん、本当にありがとうございました!! m(_._)m

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